思い出はタカラモノ

舞台と推しの話メイン

双騎出陣2020

9/23、幕末天狼傳の東京公演中止が発表された。

9/26、双騎出陣の4公演中止が発表された。


夢への招待状2枚が、またしても紙切れとなった。

心に受けたダメージは相当大きくて、もう歩けないかもと思ってしまった。
これまで生きてきた中で、一番危うい日々だった。
(中止という決定には納得していた。あくまでも自分が感情を処理しきれなかったという話)


結果的に私の双騎初日となった10/2も、公演が始まる直前まで、本当に始まるのかという不安な気持ちは消えなかった。

雨の音と共に暗転していく場内を見てあんなに泣けたのは初めてだった。
半年ぶりに観る舞台。あぁ、無事に幕が上がる、と思える瞬間を、ずっとずっと待っていた。



今回の演目は「ミュージカル刀剣乱舞 双騎出陣2020~SOGA~」

刀ミュに出てくる髭切、膝丸という二振りが、日本三大仇討と言われる「曽我物語」を演じるという所謂「劇中劇」のようなもの。
(この物語の中で、仇討ちに使われる刀の内一振りが膝丸である)
2019年に初演があり、今回は内容をブラッシュアップした再演だ。


2019年の上演は生配信で観たが、内容は勿論のこと、1時間で描かれているとは信じられないほどに濃密で隙のない物語で、本当に感動だった。
曖昧さや理解を削ぐほどに難解なことは一つもなくて、そのどれもが取り零しなくこちらに伝わってる。

今年は内容はよく分かった上で、初の生観劇。
それでも、始まってしまえばもう「楽しい」の一言で、あっという間に物語の世界にさらわれて行った。




あらすじ

幼い兄弟は、最愛の父を目の前で殺された。

兄はその場で敵に斬りかかろうとするくらい勇敢で(勿論すぐ母に止められる)、そこからすぐに「泣いてはいられない、強くなって父上の仇を」と日々鍛練を始める。
弟は暫く悲しんでいたが、鍛練に励む兄の姿を見て次第に「兄に追い付きたい」「兄に寄り添いたい」と思うようになり、兄から剣術を教わるようになる。

そんな二人を見た母は、仇討ちを止めさせるために弟を出家させる。
離れ離れになった二人だが、各々の場所で仇討ちに向けた鍛練を続けた。
大人になって再会した時、仇討ちを誓ったことを忘れていないと確認し、手合わせをして互いに強くなったことを称え合った。

離れ離れになっても、心は同じところにあった兄弟の意思は固い。
仇討ち前母親に別れを告げに向かい、勘当だとまで言われても、仇討ちこそ我らが生きる道と言わんばかりに食い下がる。
母親の元を離れる巣立ちの歌に合わせて舞う姿が、美しい。
他にも道はあったはずなのに、死ぬことを分かっていて巣立つ兄弟とそれを送る母親が、悲しい。

敵の攻撃を受け瀕死の状態になりながらも仇討ちは成功。先に逝く兄、続く弟。
ただ一つの目的のために生き、それを成し遂げて兄弟は散っていった。


天才的な二人の演技力

三浦くん演じる髭切、高野くん演じる膝丸を生で見るのは初めてだった。予想通りというか周知の事実ではあるけど、二人ともまじで演技が上手い。
刀ミュは公演が始まってから千秋楽までに役者の成長が見えるところがすごく好きなんだけど、二人の場合最初に見せつけられるレベルが桁違いというか、まじでプロだなと思う(いつものことだが語彙力がまるでない)

明らかに「フリ」であることが分かるシーン……例えば、ラストの亡くなった二人が操り人形のように動かされて立ち上がり椅子に座るところ。
黒子のようなアンサンブルさんの手の動きに合わせて身体を動かすのがまぁ信じられないほど上手い。
目を閉じているからアンサンブルさんのことは見えないだろうし、恐らく音楽をきっかけに動いていると思われるものの、にしたってそんな上手いことある?ってくらい、操られているように見える。完璧だ。


あとは幼い二人が剣術の稽古に励むところ。
できることを敢えてできないように、下手に見せるってかなり難しいと思うんだけど、それが二人は上手で、本当に子供がお稽古しているように見えてしまう。可愛い。可愛すぎる。

年下の弟は特に動きが幼くて、仕草もそうなんだけど、集中してる時の視線の置き方とか口の結び方まで完璧だった。23歳が演じてるだなんて到底思えない。
ステージ間近で観た時は身体の大きさにびっくりしたけど(二人とも180cmくらいある)、それでも子供に見えるんだから、これを天才と呼ばずして何と呼ぶのか。

こういう、演じているものと実体が明らかに違うのにそう見える、感情移入できるって本当に舞台の醍醐味だよなぁと思った。
(映像なら確実に「子役」という役割に振られる場面だから)


残り10公演以上あるのに既に完成されていて「今日が千秋楽です」と言われても納得できるくらいの演技。
例えで言ってるけど、このご時世いつどの公演が千秋楽になってもおかしくない。
そんな中、毎日千秋楽並みの完成度でお芝居を届けてくれるなんて、観る側としては本当に有難いことだと思った。



ソーシャルディスタンスな演出

演者はマウスシールドを着けていたけれど、遠目だったし目立つものでもなく、マウスシールドがあるせいで…!と思うような場面はなくて気にならなかった。

だが!ソーシャルディスタンスだけはめちゃくちゃに感じた………

初演なら全く気にならないだろう、というくらい演出としての違和感はなかった。
気になってしまったのは再演が故。
初演では触れ合っていたシーンで立ち位置や相手に触れないような動きにまで変わっているのが分かってしまって「おのれソーシャルディスタンスぅぅぅ!」とハンカチを噛まずにはいられなかった。
(幼い二人仲睦まじいシーンが本当に大好きだったのです……)

振付師もせっかく大好きなDAZZLEさんで、息を合わせて互いの身体に触れる絶妙な美しい振り付けが特徴(と勝手に思っている)のに、やはりこちらも距離を保ちながらの振り付けに変わっていて「おのれソー(略」でした。
それでもアンサンブルさん含めかっこよさ健在。正面から観た時の美しさはさすがの一言でした。


とは言いつつも、演者同士距離を保っていることには正直安心もした。
実は先日観た全く別の舞台、演者同士が普通の距離感でお芝居をしていて、マウスシールドもなく少々心配な気持ちがあったのだ。
(それを批判するつもりは全くない。刀ミュとは性質が大きく異なるカンパニーで、それ以外の対策は徹底していたので。)


ただ、仮にその舞台に推しが立っていた場合、心配な気持ちに拍車がかかりそうで、観劇に集中できるか分からないなと思った。
私は自分自身の感染リスクよりも、演者のリスクに不安を感じるタイプなんだと思う。

刀ミュは演者同士の距離が保たれていたことによる寂しさは多少あったが、観劇に集中できないほどの不安や心配はなかった。


現代でリアルな「ソーシャルディスタンス」を取り入れることによって、制限がある中でも何とかしてこちら側に届けようとしてくれている気持ちや努力が感じられたし、「制限がある中でどうすれば今まで通りに近いパフォーマンスができるか」という社会人として同じ視点で試行錯誤しているという事実が(変な言い方かもしれないが)なんだか「一人じゃないんだ」と思えたし、嬉しかったのだ。


更に言うと、ソーシャルディスタンスという距離感が生んだ名場面もあって。

仇討ちを果たした直後、兄弟はその戦いの傷が致命傷で亡くなるんだけど、初演は兄が弟に抱き抱えられるようにして先に、後を追うようにすぐ弟も亡くなり、二人が折り重なるように倒れた状態で舞台は幕を下ろした。

一方今回の再演では、仇討ちを果たした後それぞれが少し離れた位置で倒れ、兄が弟に向かって手を伸ばすもそのまま、弟も兄に呼び掛けながら手を伸ばすもそのまま、という形だった。
互いに向かって伸ばされた手が、届かずに終わってしまった。
引き離されても、二人の心はいつも同じだったのに。

このシーン、毎回観ていて「こんなに苦しいこと他にある?!」といつも思っていた。
フィクションなんだから届かせてくれよおおおという気持ちと、フィクションでも触れられないこの世界の苦しさに、泣いた。

後日観た配信のアングルでは、この伸ばされた手がかなり強調され上手いこと映し出されていて、舞台を映像で観ることの良さを初めて感じることができた。


幕末天狼傳の稽古中は、お昼でも周りとは距離を置き、会話もせずに一人で食べていると聞いた。恐らく双騎もそうだろう。
同じ作品を作っている者同志、きっとそこに向かう心は同じなのに近寄れない、触れられない。
私にはそんなリアルとも重なって見えて、余計泣けた。


コーレス禁止


今回の公演「上演前でも観客同士の発話は控えるよう」というお達しがあったので、勿論上演中も黙っていた。
お芝地で面白いシーンがあってもクスッともできず、ライブで盛り上がっても黄色い歓声もあげられず無言でペンライトを振る。曲が終わったら拍手をする。

パライソを観た時もそうだったけれど、声を出せないことがこんなにも苦しいとは…。

拍手だけで、こちらの気持ちは届くのだろうか。
こんなにキラキラしたものを見せてもらっているのに、何もできないなんて。
そんな無力さみたいなものを感じながら、でもありがとうを伝えるにはこれしかない!と思って、人生で一番力を込めて拍手を送った。(拍手で筋肉痛になる日が来るとは思わなかった)


過去を振り返る刀ミュ


ライブパートで振り付けを教えてくれるアンサンブルさんが「まずは右手でEを作りまーす!」って言った時、反射的にEは作ったものの「…………………………………今Eって言いました???!」ってめちゃくちゃびっくりした。
間違なく2020年で一番度肝を抜かれた瞬間だった。(二番目はパライソで観た「タカラモノ」です)
続く言葉を聞く前に、次は両手でOを作るのだと分かったものの、一瞬前後不覚(概念)に陥った。
「冗談だよ」って言いながら髭切が出て来る妄想までしたけどそんなことは起こらなくて、聞き慣れたイントロで涙腺おかしくなった。ライブパートで嗚咽を堪えたのは初めてだった。


えおえおあ

えおえおあ


私が刀ミュの中でもトップに入るくらい大好きなこの曲をやってくれたんです。
通勤中に聴いてちょっと泣きそうになる、そんな日々をどれほど送ったか分からない。
刀ミュを好きになった頃から、私の日常に変わらず寄り添ってくれる曲。
最後に演奏された2017年は私にとって「映像の中の世界」で、生で聴いたり一緒に振り付けをしたりすることはこの先ないんだろうなと思っていた。それこそ夢にも思わなかったくらいの夢。


『魔法の言葉が響いてゆく モノクロの世界に色を付けよう』

このフレーズを聴くと一緒にペンライトを振った光景が目に浮かぶようになった。
大切な思い出がまた一つ増えました。


双騎が私にくれたもの


最後の観劇だった2020/3/24からこの日を迎えるまで、私は随分と暗い毎日を送っていた。
「明日無くていいかも」という気持ちが、いつか「無くていいや」に変わってしまいそうな、人生で初めてそれと向き合う日々だった。

理由は「日常から生のエンタメが消えたから」に他ならない。
原因追求したところでこれ以上はなかったし、それを補う何かも見つけられなかった。

私にとって初日だった10/2、観劇しながら「あぁ、私今生きてる」と何度となく思った。
座ってるだけで生を実感するなんておかしな話かもしれないが、自分の心が動く音を聞いたのは、随分と久しぶりだった。


帰り道、受け取った大きなものを理解しきれずにぼんやりと歩きながら、観劇前とは目に写る景色が全く違うことはすぐに分かった。
思考が追い付いた時に最初に認識したのは「危機を脱した」ということだった。
唐突すぎるトンネルの終わりに自分でもびっくりした、本当に先が見えなくて、もしかして出口には辿り着けないのかもと思っていたから。
たった2時間半でこんなに元気になることってある?私何か自分の気持ちを履き違えてる?一時的なものでは?と半信半疑だったくらい。


翌日は観劇予定がないから「明日早く来い!」とまでは思えなかったけど、「次がいつになるかは分からないけど、こんなに素晴らしい景色を見られるなら、それが1年後でも2年後でも生きていかなくては」「明日がないと1年後は来ないよな……じゃあ明日を生きよう」と思った。

あの帰り道から時間が流れても、その気持ちはまだ続いている。
過去の映像を観たり、観た景色を思い出したり、元通りではないけれど、かつて過ごした日常に少しだけ近づいた日々を、楽しく過ごしている。



私はこの観劇体験で救われた。
どこかの歯車が1つでも噛み合わなかったら、観劇できなかったかもしれない。

まだ短い舞台おたく人生だけど、この先ここまで晴れ渡る気持ちを感じること、もしかしたらそんなに多くないのかもしれない。
双騎出陣を観劇できて本当に良かった。


ありがとう、ミュージカル『刀剣乱舞』!

比叡山延暦寺ライブ2020

推しの人がすごかったという話。


8月29日、自宅でこの配信を観た。



開催が発表されたのは6月27日、くるむくん初の単独イベント(無観客生配信)の最後に

世界遺産朗読」

という文字(マジック手書き可愛い)が現れて、頭に?が飛んだものだ。
舞台おたく歴が浅いので、恥ずかしながら朗読劇を観たことがなく「どっかの世界遺産で本を朗読するんだろう」「なんかよく分かんないけど楽しみ」くらいに思っていた。



ところが蓋を開けてみたら、
・朗読劇+ライブの二部構成
延暦寺の中でも、昼は東塔の「猿の間」、夜は阿弥陀堂の「猿の間」とそれぞれ違う場所で二公演開催。回替わり要素あり
・初めて自身が作詞した「親愛なる君に」を含む全6曲を披露、カバーはなく全てオリジナルの楽曲
という、俳優さんが初めて行うライブにしては信じられないほど豪華で、予想を大きく上回る公演だった。


もう他に言葉が見つからないからそのまま書くけど、めちゃくちゃにかっこよかった。


以下ネタバレを含む超個人的感想。


朗読劇


事前に「猿(さる)の間」にいる謎の男「猿(えん)」を演じることは知らされていたが、私はてっきりくるむくんがくるむくんの姿で現れるものと思っていた。

ところが初っぱな画面にどアップで映ったのは、赤い着物を纏い、お顔や手の甲に隈取メイクのような赤いラインを引き、煙管を持ち、真っ直ぐに前を見つめる金色の瞳、それは紛れもなくくるむくんではなく「猿」だった。

くるむくん自身は若いし、勿論猿の格好をしていてもそれは変わらないんだけど、猿の風貌というか纏う雰囲気は「青年」とは駆け離れていて、ずっとずっと長い時を生きていきたような、言わば「人ならざるもの」

猿の口から語られたのは比叡山延暦寺の歴史(織田信長明智光秀らと共に比叡山を焼き払ったこと)や、まるで自分のことのように感じられるくらいに切ない、人と人ではないものの恋物語
長い時の中で恐らく猿自身が見てきた「歴史」を、迷い込んだ「貴方」に対して読み聞かせる姿は、憂いを帯びていて、今にも消えてしまいそうな幻のようにも見えた。

更に驚いたのが夜公演。
猿の容姿は全く同じように見えたが、話が進んでいく中で頭髪にやや白髪が混じっていることに気が付いた。

夜の恋物語に出て来た「男」の容姿は「殆ど変わらない」という。若い人間が初老を迎えるほどの時が流れているのに。

昼公演では「黄色いワンピースを着た歳若い女性」、夜公演では「黄色い着物の初老の女性」と語っていたことを踏まえても、恐らく「人と人ではないものの物語」として語られたのは、猿の過去の話だったように思う。

それに気が付いた時のハッとした、あの高揚感にも似た気持ちは、まさに過去の観劇で感じていたものと同じだった。
場所は自宅だけれど、今自分はお芝居を観ていて、間違いなくくるむくんと同じ時間を共有しているんだと思えた。

台詞の言い回し、間の取り方、昼公演から夜公演の間にブラッシュアップされていて、より感情移入しやすかった。
前々から成長が爆速だなと感じてはいたけど、この数時間でも修正してくるところ、本当にすごい人だと思う。

ライブパート

朗読劇と同じくらい度肝を抜かれた。
全部オリジナル曲であること、その中にはダンスナンバーも含まれることが1週間前に発表されたが、あそこまで本格的なダンスを見せられるとは正直想像もしていなかった。

ダンスが上手なことは刀ミュのステージで十分に分かっていたが、また毛色の違うダンスで、華やかさよりかっこ良さ重視の振り付けというか、とにかくくるむくんのキレの良さが引き立っていた。
(専門用語を知らなすぎて上手く説明できないのが悔やまれる…)

個人的に振り付け師がどなただったのか非常に気になる。
くるむくんは手や指の動きがとても美しいので、それを際立たせるような振り付けでとても良かった。

「Don't tell me lies」ではいつものくるむくんからは発せられないような言葉(歌詞)の数々に目眩さえ覚えた。

「親愛なる君に」は特にくるむくんの言葉がそのまま心に入ってくる。さすが自分で作詞しただけあって、その言葉を紡ぐまでに積み重ねられた歴史を思わずにいられなかった。

面白いことに、自身が作詞した楽曲以外にも感情を乗せるのが上手い。さすが俳優さんだけあって、まるで自分のことのように表現するのが大変上手である。

歌についてはもう言うまでもないが、とてつもなく素晴らしかった。
初めての単独ライブであそこまで歌える俳優さんはなかなかいないのではないか、と言うほどの歌唱力。
数ヶ月前「ボイトレをしたことがない」と言っていた時には本気で耳を疑ったものだが、現在もそうだとすると今後確実に伸び代がある状態ということになる。これからの更なる成長を思うと末恐ろしくなるほどだ。


くるむくん自身について

ここまで書いて改めて思ったが、最近特に彼を「俳優」と括って良いのか疑問だ。
歌もダンスも殺陣も既に彼の強みの一つで、地域コラボで様々なグッズを出したり、自分で描いた絵をグッズに使ったり、毎月の配信で無邪気にファンとトークをしたり、毎週自身のオフィシャルサイトで写真や動画を公開したり、世界遺産での単独ライブを成功させたり。

たくさんの活動の全てから受け手への明確なメッセージが感じられ、常にファンを驚かせ、楽しませることを止めない。

この「常に」というのはファンとして本当に有難いことで、観劇やライブなどの「生で体感できるエンタメ」が日常から消えてしまった今、供給が常にあることは何にも代えがたく、大袈裟じゃなく「明日への活力」「生きる糧」になっている。

更に、今回のライブの収益の一部は募金に充てると聞いている。医療従事者の役に立ちたいと。
この状況で活動を続けるという強い意思を持っていること、心のベクトルを自分ではなく外に向けられること、本当にすごいと思うし尊敬している。
岡宮来夢くんは「俳優」の枠から飛び出た「エンターテイナー」だと、私は思っている。




観劇のない生活になってから随分経つ。
現場に行く前のソワソワや、開演前の緊張で血の気が引くような感覚。
前のように味わえるのはいつになるだろうと、何度考えても夢物語のように思えて、悲しくなるのは今でも同じだ。

でも、たった一人でステージに立ち堂々とした姿を見せてくれたくるむくんは本当にかっこ良かったし、配信を観た後数日間その光景で頭がいっぱいで、浮き足立つようなフワフワした感覚を久しぶりに味わった。

それは以前生で観劇した後に味わった気持ちに限りなく近いものだった。
生の観劇が大好きな私が、ライブ配信での観劇を好きになれるのだろうかと悩んだこともあるし、実際に結論は出ていないが、あの日の私にとっては、確かに「自宅」が現場だったんだろう。

くるむくんがステージに立ってくれなかったら、こんな感覚を味わえたかどうか分からない。


これからもたくさんのことにチャレンジし、努力し、素晴らしい景色を見せてくれるのだろうと思うと本当に本当に楽しみでならない。
それを可能な限り長く見続けたいし、自分なりに応援し続けたいと思う。

そしていつか、生でくるむくんに会える日が来ることを、切に願っている。

ただの日記


友達につらい~しんどい~むり~って主旨のLINEを送りつけて、その返事の中に

「(舞台やらエンタメがすぐ)元に戻るなんて思ってないんだろ?」

ってあって、頭をガツーンとやられた。

ずっと前から分かってるし覚悟もしているつもりなんだけど、向き合う度に悲しくなるね。

いつ元に戻るかなぁ。
本当に元に戻るかなぁ。
戻ってきても同じ形じゃないかもなぁ。
その時私は好きな気持ちを持っているかなぁ。




TLで見かけて思ったこと。(鍵垢さんなので引用はしない)
↓このエントリー関連。

tou-musical.hatenablog.com


「大事にしたい」という思いから同じように(正確には全く同じではないけれど)苦しむ道を選んだと思ってたけど、確かに自分を殴り続けているようなもんだよな。
めちゃくちゃに苦しいし、どう考えたって効率が悪い。

考えなくても思うがままで良いんじゃないってボスは言ってたけど、私まさにこの苦しい道に進みたがっているんだよな。

だって、望むのをやめた先にあるのは舞台が存在しない世界かもしれないんだよ。
それが自分規模でも世界規模でも、想像するだけでとても悲しくて真っ暗になる。




この何ヶ月か、人に近況を聞かれた時に一番答えたくなるのは「しんでる」だった。
無用な心配をかけるだけだし、おたくがおたくたらしめていたもの(現場)を失くしたことによるこういう感情って、正直理解されにくいだろうと思うから実際には答えてない。
それでも冗談でもなんでもなく、心から思ってる。

アイデンティティが消失した今、どうやったら心が元通りになるのか分からない。

前の会社で働いてて鬱っぽくなったことがあるけど、あの時は解決策が分かっていたし実際にその選択をすることが可能だった。
今は自分では選択できないところに解決策があるから、どうにもできない。


「しんでる」とは言わなかったけど、現場がなくてアイデンティティを消失したことを簡単に話したら、理解してくれた人がいた。
「しんだようなもんだね」と言葉をかけてもらったことで、なぜか私はとてもすっきりした。

自分がしんでいることを知っている人間が身近にいることは、案外救いになるものだ。

知らずうちに置き換わったもの

人生で初めて公演中止の発表を浴びて、ちょうど4ヶ月経った。

(受け入れることも拒絶することもできない事柄を、「浴びる」と表現するのが相応しいと思って以来たまに使ってる。人の受け売りだけども)


なんとか生きてる。
本当に、なんとかという感じ。余裕のない日々。
お店が開いたり美容院に行けたり、そんな日常が戻ってきても自分の気持ちはちっとも上向きにならない。
観劇がなければ、もうそれは「何もない」と同義であると痛感している。
瞬間的に楽しいことはあるけど、長続きしなくてすぐに元気がなくなってしまう。


ここまで落ちている時、メンタルを保つため「考えないようにする」「期待しないでおく」ことが自分にとっては一番効果的だ。

それを理解しながら、私は3月頭の段階から今までこれを全く実行してこなかった。
たくさん考えたし、もうどう考えても無理な状況と分かってはいても、観たいと思い願い続けてきた。
結果的に気持ちは全く這い上がって来れないけど、それで良いとすら思っている。

何故だか「考えないようにする」「期待しないでおく」ことはどうしてもしたくなかった。
更に落ち込むことが分かっているのに、なぜ敢えてその方向へ進むのを止めないのか、自分でも不思議に思い過ごしていた。


そんなことを考えながら過ごしていたある日、ベッドに入ったタイミングでこのツイートを見かけた。




「一時的なつもりでいる諦めが、いつの間にか恒久的なものに置き換わらないかが怖い」


自分では語源化できなかった、ずっと心に引っ掛かっていた出来事の答えに出逢ってしまったと思った。

私は過去、これを要因として大切にしたかった感情を失った経験がある。

脱線しそうだから詳細は省くけど、舞台界隈に足を突っ込む前、私はあるバンドが大好きだった。
新曲→ツアー→アルバム→ツアーというようなコンスタントな活動をしたのは2012年が最後。

次はいつになるのか、いつまで待てばまた会えるのか、むしろ次はあるのか。

そんな不安が強すぎて、とても耐えられないと感じたのは2015年10月だった。
直前に終わったライブがあまりにも楽しくて、曲を聴く度に泣いてしまうほど反動の喪失感が大きすぎた。
好きだと思うところ~会えないと認識するところまでセットになってしまっていて、想うことすら辛かった。


その時私が取った行動が、「考えないようにする」「期待しないでおく」だった。
考えないために、泣かないために曲を聴く頻度を極端に減らし「次のライブは無いかもしれないし、もし無くても大丈夫」と思いながら日々過ごした。(所謂心配しないでね私は大丈夫だから状態)(刀ミュネタを挟みたくなる病を患っています)


「ライブして欲しいな」ではなく「ライブはやらないだろうね」
「会いたいな」ではなく「会えない人たちだからしょうがない」
期待をせず、諦めたふりをするようなことを思いながら過ごした4年の間に3回のライブが開催されたけど、MAX値の熱量で挑めたことは一度もなかった。
結果的に、これまで通りに追いかけることは辞めるという結論を出した。

勿論、これ以外の要因や細かな気持ちの変化はたくさんあった。
でも「一時的なつもりでいる諦めが、いつの間にか恒久的なものに置き換わったこと」が要因の一つであることは、間違いないと思っている。


これに気が付いた時本気で心臓が冷えるような感覚がしたし、なんてバカなことをしてしまったんだろうと思った。
好きなら、そのまま好きでいれば良かったのに。
想うことが辛くても、心のままに好きでいれば良かったのに。

若かったし、当時は他に心を保つ方法が分からなかったから、仕方がないのかもしれないけれど。
随分久しぶりに「後悔」という気持ちを味わった。



そして今、もう絶対に同じ後悔をしたくないと思っている。


「次に舞台を観られるのはいつなのか?」
そんなの世界中誰に聞いたって分かる訳ないけど、考えることを止めたくない。

「1年には上演できるようになってないかな」
期待した分、望んだ未来が訪れなかった時に大きくダメージを受けるだろう。
それでも私は期待してたい。
期待していないフリをして、自分の気持ちに嘘はつきたくない。
舞台を観ることを諦めたくない。


多分私は、エンタメとエンタメの世界で生きている人たちと共に苦しみたいのだと思う。
立ち位置も志すものも違うから、同じ温度感、同じ気持ちでいるのは不可能なことだと分かっている。
だけど、それでも最大限想像力を働かせられる範囲に、自分の身を置いていたい。
心だけでも寄り添っていたい。
いつか夜が明けた時に、共に爆発的な温度で喜びを感じたい。



双騎出陣2020~SOGA~
幕末天狼傳2020
大演練


これらの上映が発表された時、それはもう爆発的に喜んだ。
特に、現場おたくな私が無観客生配信の大演練に大喜びできたこと、素直に嬉しかった。

勿論状況は刻一刻と変化していくし、本当に上演できるかは分からない。死に物狂いでチケットが取れたとしても観られない可能性がある。何もかも今まで通りではない。

それでも私は、今まで通りに先行スケジュールをノートにまとめたし、申込みの計画を練っているし、一般発売までチケット戦争を闘い抜く気だ。

もしチケットが手に入ったら泣いて喜ぶし、もし中止になったら涙が枯れるくらい悲しむし、もし無事上演されたら嗚咽を堪えながら観劇する。

一喜一憂するのは疲れることもあるけど、その時の感情に従って生きていきたい。

いつか舞台が戻ってきた時に、これまでのような楽しみ方ができる自分でいられますように。

2020年5月31日

※演目に関するネタバレはありません。


ミュージカル『刀剣乱舞』~静かの海のパライソ~、大千秋楽になるはずだった日。
チケットは持っていなかったけれど、ライブ配信で観るつもりだった。

演目が上演された期間のことを後から振り返ると、ひとつの季節を一緒に過ごしたような感覚になる。
自分の目で観た景色が焼き付いて、季節の移り変わりを感じることによってその景色が自然と浮かび上がるような。


役者さんたちが大きな達成感を得て、たくさんの人からお疲れさまと声をかけてもらえたであろう今日、刀ミュに新たな歴史を刻むことになったであろう今日が、あったはずだった。
2020年という時間軸の中でそれが叶うことはもう絶対に不可能で、そんなの随分前から予想も覚悟もしていたはずなのに。今でも噛み砕けないまま、しこりのように心にずっと残っている。


公演が始まった3月21日からの約2ヶ月は、私が思い描いていた季節とは随分かけ離れたものになってしまった。
それでも、私がパライソを思いながら過ごした季節があったことを、来年秋に笑って読み返すために書き記しておく。


自分史上過去最大のチケット戦争は、歌合の終了と共に始まった。
くるむくんを推しと認識して初の舞台、しかも座長。できるだけたくさん生で観たいと思っていた。
言うまでもなく結果は散々だったけど、できることは全てやったし諦めず最後まで戦い抜いたと、達成感を得て一人打ち上げをしたのは2月22日のことだった

発券したチケットを、大事に大事に歌合のチケットケースに入れて、待っていた。
ただひたすらにワクワクして、キラキラした気持ちだけを抱えて当日を迎えるはずだった。


それから2週間も経たないうちに、無事上演されるのだろうかという不安が胸を埋め尽くした。
チケットを手に入れてから公演までの「無条件で楽しみな時間」に水を差されるほどの有事は完全に想定外で対処法も分からなかったが、この頃の正直な気持ちは「上演して欲しい、どうしてもパライソが観たい」だった。それを口に出して良いのかは分からなかったけれど。


3月17日、初日4日前にして上演がアナウンスされた時はみるみるうちに力が湧いてきた。毎日この世の終わりみたいな顔をして生きていたのに、それはもうびっくりするぐらいの回復ぶりで。
目に映る景色が一気にキラキラしたし、ちゃんと息が吸えるというか、あぁ生きてるな、と思えた。
上演時間、ソロビジュアル、グッズの発表等一気に駆け巡る情報に、喜びと興奮で頭が沸騰しそうだった。


日々状況が変化する中、突然中止になってしまうのではという心配は、自分が観劇する日の舞台の幕が開く瞬間まで途切れなかった。
でも、幕が開いた瞬間からそんなことは全部頭から吹っ飛んで、一部ラストでキャストさんがお辞儀をした時「あ、これ舞台だったんだ」と現実に引き戻される体験が、いつも通りにできたことが嬉しかった。泣いて笑って、感情が振り回される最高の舞台だった。


長年おたくをしてきた中で、私は常々「自分にできることは何もない」という無力さを感じているのだけれど(お金を出すことはできるけど、観劇やイベントという対価をもらっている以上『できること』として括って良いものか微妙なので)、今回は劇場で行われた感染対策(サーモグラフィーや野外整列等)に協力することの他に、自分でできることがたくさんあった。

マスクの着用や消毒、私語を控える、グッズは前日物販を活用し劇場にいる時間を極力短くする等。上演するために協力できることがあれば何でもしたいという気持ちだったから、対策を取ることで自分も参加者の一員になれたような気がして嬉しかった。


都の外出自粛要請により、東京公演は予定より3日早く幕を下ろすことになった。

その後、神戸、熊本、宮城公演の中止が三度にわたって発表され、私が観劇した翌々日(3月26日)のソワレ公演が、結果的に予定よりもうんと早い、予期せぬ千秋楽となった。65公演中7公演目のことだった。

観劇当日に感じていたザワザワは実際本当にすぐそこまで迫っていて、ギリギリの状況だったという事実を思うと、今でも心がひりひりする。


地方公演の上演可否の発表を待っていた4月は、平常時と同じように仕事をしていたけれど、パライソのことを考えていたこと以外どうやって日々を過ごしていたのか、全然覚えていない。
再開できるかも、できないかも、常にどちらかのことを考えて希望したり絶望したり。追加でチケットを手配したもののその公演も中止になる、ということを何度か繰り返したり。ただ毎日、足元がグラグラするような感覚だったことは覚えている。


本来舞台を観た後1ヶ月くらいは元気百倍でいられるんだけど、今回はどうしても元気でいられなかった。
自分も世界も状況が変わりすぎていて、パライソを観劇したことは事実なのに、あの日のことが夢か幻のように思えた。
あんなに元気をもらったのに、それ以上に干からびるスピードが圧倒的だった。


公演が再開できなかったことと同じくらい、円盤の発売が中止と発表された時は言葉にできないほどの悲しみだった。


2020年のパライソは、もう二度と観られない。
映像という形では世に残らない。

本当に「今」しかないものだった。
来年秋に再度上演できるように調整中であると公式から発表されているが、それが実現したとしても「2021年のパライソ」なのだ。
今年上演されたパライソは唯一無二のもので、他の何とも替えがきかない。もう一生、観ることが叶わない。
そう考えるだけで今でも涙が出るし、受け入れられない。「パライソがあった世界線」にいつまでも思い馳せてしまう。


私は一度の観劇で全てを受け取りきれない体質である。
脳内処理が追い付かなくて、どうしても取り零してしまう箇所がある。
だからこそ複数回の観劇を基本としており、そこで理解が追い付いた時に初めて「感想」を言葉にできて、自分で飲み込める気がするのだ。


だから、パライソをもう一度観劇したかった。現地で観劇できなくても、せめて映像でも良いから観たかった。
私の心に、パライソは完結しない物語のように残ったままだ。

時間が経てば飲み込む前に忘れてしまうんだろうかと恐怖を感じることもあるし、実際どうなるかは分からない。

でもできれば、この飲み込めない気持ちを来年秋に劇場へ持って行きたいと思っている。
2021年のパライソを観て、泣いて笑って、感想を言葉にして、受け止めて、きちんと飲み込みたい。


今はまだ真っ暗な道しか見えなくて、もしかしたら想像よりもずっと長い時間、刀ミュを観劇することは叶わないのかもしれない。
それでも、また会える日が必ず来ると信じている。
信じて生き続けることしかできないから、自分の気持ちが続く限り信じていたいと思う。



ミュージカル『刀剣乱舞』~静かの海のパライソ~

上演してくださったことに、心からの感謝を。

またお会いできる日まで、どうかお元気で。

今生の別れ

かつてそう思って、心の中でお別れを告げた人がいた。


忘れもしない、2019年5月7日。ちょうど1年前だ。
刀ミュの単騎出陣アジアツアーの凱旋公演で、私は幕張メッセにいた。

初めての刀ミュの現場。
GW明けのド平日、当然休暇は取れず。地方住みだった私は、当日東京オフィスで1日仕事をして、帰りに幕張へ向かった。
終演後最終の新幹線にリアルダッシュで乗り込み、翌日は地元で仕事。
毎週遠征した4月を乗り越えてのこれ、今思えばわりとめちゃくちゃなスケジュールだったな。

ソワレだけでもいいからどうしても行きたかった。
行かなければ絶対に後悔することが明確だったから。


流司くんの演じる加州清光が大好きだし、私にとっては刀ミュの原点なのだ。
当時の単騎について、よく「集大成」という言葉が使われていた。
それまで毎年行われていた単騎が、きっと今後コンスタントには行われなくなる。
流司くんが加州清光を演じることも、今後あるのかどうか分からない。そんな予感がしていた。

だから幕張には「初めまして」と「さよなら」を告げるみたいな、複雑な気持ちで挑んだ。
勿論さよならなんて言いたくないけど、そのつもりでいないと本当にさよならだった時に耐えられる自信がなかったのだ。


ちょうど1年後の2020年5月7日、あの日と同じオフィスで仕事をした。
あと◯時間…!とカウントダウンしながらトイレの個室で音を立てずに暴れまわっていたことも思い出した(仕事しなよ)

帰り道の青とオレンジが混ざった空は、あの日ととっても似ていた。
京葉線に揺られながらあと○分後には…!って最高に幸せでワクワクしていた気持ちに、ひとときだけ戻れた気がした。


1年という時間を噛み締めながら観たアーカイブ配信(円盤はマチネなので)、びっくりするほど「今観ている」ように錯覚したし、始まった瞬間の感動とかいつもの「始まったってことは終わっちゃうんだ」っていう悲しさとか、本当に本当に終わらないでって心から願ったこととか、昨日のことのように思い出してたくさん泣いた。
当日泣きすぎでコンタクトが外れて最後らへん片目で観てたのも良い思い出(笑えるけど当時はなんで今~~~って思ってた)。



1年後にはまさか観劇のために東京に住んでるだなんて想像もしていなかったし、まさか観劇が消えた日常を送っていることも想像していなかった。

でも不思議なことに、映像を観て感じたことは「本当に世界は変わってしまった」という絶望より、「またこんな夢のような時間に出逢えるかな」という希望だった。

過去の自分の体験が、今の自分を励ましてくれる。
私は舞台に生かされている。



2020年に幕末天狼傳が上演されると発表があった時、あれが「お別れ」じゃなかったことがじわじわと押し寄せてきて、震えながら泣いた。

どんな形で上演されるのか、本当に上演されるのかは分からない。
でも、流司くんが再び加州清光であろうとしてくれた気持ちが手離しで嬉しいから、今は不安よりも喜びが大きい。


「久しぶり~!」を告げる気持ちで劇場に迎える未来があることを、心から願うばかりだ。

舞台が観たい

このご時世何が正しいのか、誰が正しいかなんて誰にも分からないと思う。
私も自分が考えてることが正しいなんて少しも思っていないし、押し付けるつもりもない。

今私が心の底から思っていることは、この状況だとなかなか人に言うのは躊躇してしまう。自分の考えを話さないという選択をすることは苦にならないし普段なら絶対黙っているのだけれど、多分こんな気持ちになること二度と(あって欲しく)ないから、書き記しておく。



何度も言うけど、正しいとか正しくないとかとは全く別のところで、自分が今思っていることです。



私は舞台が大好きだ。

舞台おたくに就任(就任?)したのは1年前だが、エンターテインメントに助けられ、エンターテインメントのために生きてきてもう10年以上になる。
定期昇給がない今の会社で毎年昇給するくらいには、まぁそこそこ働いていると思う。
だが、決して自分の能力が優れているという訳ではなく、「現場に行きたい」という自分の欲求を最大限に叶えるためだけにしているだけのこと。


観劇の時自分の目に映った景色、感じた気持ちは唯一無二のもので、他の何にも代えられない。まさに「思い出はタカラモノ」だと思っている。

舞台に立つ人が全身全霊なら、私も全身全霊で挑まなくちゃいけない。
適当に仕事をして適当に日常を過ごして舞台に行くこともできるが、それだと舞台に立つために普段から努力を積み重ねている人に失礼だ。

だから私は仕事を頑張るし日常を丁寧に過ごすし、そんでもって胸を張って舞台に行くのだ。



自分が歩むおたく道は、修行のようだとたまに思う(修行?)


まず舞台に行くために、先行から一般までの長い期間チケット戦争に明け暮れる。その合間にはきちんと仕事をこなす。
チケット入手からは、公演に関するインタビュー記事を読んだり、出演する俳優さんのことを調べたり、過去作品を視聴したり、万全の受け入れ体制を整える。その合間にはきちんと仕事をこなす。
1ヶ月前あたりから「あと◯日…!」と毎日のように考え、何着ていこう、ネイルはどうしよう、美容院予約しなきゃ、うちわ何て書こう、ペンライトの電池は…とまるで結婚式さながらにわくわくする。(そのような結婚式はない)
その合間にはきちんと仕事をこなす。


休む間もないくらい忙しない日々が続くが、自ら望んでしていることで、ここに1ミリの義務感も生じていないから自分でもびっくりである。
合間の仕事が邪魔に思えることもあるが、そこも含めて全力を尽くす。他でもなく「舞台」の力が私にそうさせるのだ。
(随分立派に書いてみたが、少しでも手を抜いたらチケットの神様が微笑んでくれなくなるかもしれない、という心配も理由の一つである)

楽しみにする時間も全部ひっくるめて楽しいから、舞台上演の発表から当日、その後の余韻を感じるところまでずっと楽しいが続く。本当に、なんて幸せなことだろうと思う。


今の状況で、私は次の舞台をいつも通り楽しみにすることができない。
万が一中止になってしまった時に、心が折れてしまわないように予防線を張っているのだ。
本当は楽しみにしたいけど、ぐっと堪えてあまり考えないようにしているのだ。
夢への招待状が紙切れに姿を変えてしまうことは、数ヶ月前は体験すらしたことがなかったのに、今はもうあまり珍しいことではない。
でも本当は、こんな状況にだって慣れたくはないのだ。
「もしかしたら」を考えて、先の舞台はいつもより多めにチケットを購入しているが、本当は「もしかしたら」なんて1ミリも考えたくないのだ。


正直、つい数週間前までではこの状況がこんなに長く続くとは思っていなかった。
ただ、演目の中止がもたらす業界への影響はずっと危惧していた。

中止による損害。会社の存続。俳優さん、スタッフさんの生活。その家族の生活。
書ききれないほど色んな心配があるのに、国は「自粛」を要請するばかりで何の保障もしない。

上演するには感染予防対策が必要だが、万が一があれば上演した会社が責められることは想像に難くない。
中止すると大きな損害を被ることになる。
いずれの選択をしても大きなリスクがつきまとう。
こんなに難しい判断を「自粛」という都合の良い言葉を使ってそれぞれに委ねるなんて、なんて狡い国だろうと思う。

この状況が長く続けば続くほど業界は疲弊し、倒産する会社も出るだろう。
普段私たちは舞台のチケットを購入することで会社に貢献しているが、肝心の舞台が上演されない以上、残念ながら私たちにできることは何もないのだ。
(グッズや過去作品のBDを買う等できることはあるが、どう考えても中止の損害をカバーできるほどの力はない)


そして、もっと心配なのが俳優さんのこと。
演目によって異なるが、舞台が始まる前1ヶ月以上の稽古期間があり、上演は2~3ヶ月程度。俳優さんには、全ての上演が終わった後に報酬が支払われると聞いている。

私が目にした中でも、稽古を終えて1回も上演されずに中止となってしまった公演、ギリギリまで検討された結果上演されたものの途中で中止になってしまった公演、一旦中止となり続報を待っている状態の公演等があり、かなり厳しい状況であることは言うまでもない。

今回のことがきっかけで、俳優さんたちの素晴らしい才能に影が差してしまわないか、不安でたまらない。
公演を続けている人たちにも、いつもとは違う無用なストレスがかかり身体を壊してしまわないか、不安でたまらない。



大好きな舞台、私を助けてくれる舞台、明日も頑張ろうと思わせてくれる舞台。
素晴らしい景色を魅せてくれる人たちを思うことしかできない、自分の不甲斐なさに心が疲れていく。



そんな今の状況が、私はとても辛い。


舞台が観たい。
舞台を楽しみにしたい。
これからの未来も、舞台を観たい。


これまで当たり前に叶えられてきた夢という名の日常が、いつ戻って来るのか分からない。
その日常が、本当に戻ってくるのか分からない。
戻ってきても、それは形を変えているかもしれない。
その形に、自分が適応できないかもしれない。


それでも私は舞台が観たいし、その時が訪れたらまた絶対に劇場に足を運ぶのだ。絶対に。