思い出はタカラモノ

舞台と推しの話メイン

あなたに会いに

これからミュージカル『刀剣乱舞』~静かの海のパライソ~を観に行って来る。

 

この日をどれほど待ちわびたか分からない。
くるむくんが出ると知った時、たくさん通おう!と即座に思ったけど
実際にはチケット戦争になかなか勝てなくて、通うことは叶わなかった。

でも、前回(葵咲本紀)の後悔を最低限活かすことはできたし、何より現場に入ることはできる。
しかもこの状況……正直中止になる覚悟はしていた。
(舞台は多くの役者が関わるものだから、延期というのはほぼ不可能なものだし)
それを、考えうる限り最大限の対策を取った上で予定通り上演してくれること。本当に感謝しかない。

おかげで私は、また新しい気持ちに出会うことができる。
推しを推しと認識して初めての公演、絶対に素晴らしいものであるに違いないと心踊らせている。

上演されるのは決して当たり前のことではなく、たくさんの人の努力で成り立っている。
今回はここに、自分も協力できると思っている。
マスク着用、消毒、除菌シート、体調管理、そしていざという時に観劇をしないという判断を自分で下せること。

 

私もこの舞台を上演する一員になって、ミュージカル『刀剣乱舞』が走り抜けるのを見届けたい。

自分にとっての「推し」の定義

ここ暫く考えてきたお題、この人…推しだ…!と確信するに至る決定的な感情、感じたことはあるけどやっと言語化できるようになったので書き記しておく。

 

10年同じ人を推してきたということもあり、新しい推しに出会うためのアンテナがなく、「一体何をもって推しと認定されるのか?」とこの1年の間時々疑問に思っていた。
舞台界隈に足を踏み入れてから「この人好き!」と思う人は何人かいたし、便宜上「推し」という言葉で表現したこともあるが、なんかそれ私が思ってる「推し」とは違うんだよな~という宙ぶらりんな状態だった。

まぁでも別に突き詰めなくてもいいかなと思ってた。その人が推しであろうがなかろうが、その人が好きでその人に会いたいという気持ちは嘘じゃないんだし、だったらもう何も考えず現場行こうぜ、という気持ちでひたすら1年走り続けた。
今回はその結論が思いがけず突然降ってきたという話。

 

着地点を明確にするために先に述べておくけど、私が推しに対して抱くのは以下のような気持ち。

・その人にとって悲しいことができるだけ起こらないように祈りたくなる
・でも生きていれば避けられないことも絶対にあるから、悲しいことがあったとしてもそれを乗り越えられるだけの助けや人に恵まれ、とにかく幸せになって欲しいと思う
・心の中を覗きたいような気持ちになるけどそれは不可能だから、その人が何かしらの場面で自分の心情を語る時には耳を澄ませたいなと思う。語られることがない時は「あの瞬間はどんな景色がその目に映りどんな気持ちだったろう」と想像したくなる
・私ができない全てのことを顔を知らない誰かに託したい気持ちになる(ご飯をたくさんご馳走してあげたり一緒に遊んだり)

 

結論が降ってきたきっかけは、刀ミュの「歌合」という公演の大千秋楽。
何度もこの公演を観てきたけど、千秋楽のこれまでになかったあるシーンを観て予期せず涙が出て自分でも理由が分からないまま泣き続けるという奇妙な経験をした。
(一般的に奇妙なことなのかは分からないけど、少なくとも自分でこういう経験をしたのは人生の中でも数少ないか、全くなかった)

舞台を観て泣くことはよくある。でもそれっていつも「悲しい」「辛い」みたいな語源化できる感情と共にやって来るもので、「何に悲しんでいるのか」「何が辛いのか」を問うことはあっても「なぜ泣いているのか」を問うことなんてなかった。

帰り道、まだ夢から醒めないようなぼんやりした思考の中であれはなんだったのか考えてた。
目に焼き付いた該当の場面を思い出しながら、この気持ちは前にもどこかで感じたことがある。どこだっけ?と。
それが10年推してきたアーティストYさんに対しての気持ちと同じだと気付いた時、ピタッと型にはまるような感覚だった。「あぁ、この人推しだな」と認めざるを得なかった。

 

ちなみに該当のシーンというのは、クライマックスのスーパーウルトラ感動シーン(説明が雑)で伊万里さんがくるむくんの頭をポンポンしたところ(台本にある出来事ではない)
くるむくんは舞台に出演するのが2回目なのに、歌合ではセンターに立つことが多い重要な役割を任されていた。めちゃくちゃに大変だったであろうことは想像に難くない。そんなくるむくんを労うように見えたポンポンは、ここまでよく頑張ったなという伊万里さんの声が聞こえてきそうな光景だった。

しかも、刀ミュはキャラクターとして舞台に立つことが徹底されている。カーテンコールですら自分の名前を言うことはなく、あくまでもキャラクターとして最後の挨拶までを全うするほどに。*1
そんな中でも咄嗟に出た行動だったんだと思う(キャラクターとして見ればあまりそれらしい行動ではなかったかもしれないけど、私はとても好きな場面だった)

 

すぐにでも労いを行動に移してくれた伊万里さんに感謝だったし、とにかくキャストさん全員で労ってあげて欲しい…!と強く思った。
絶対に簡単なことではなかったはず。直前まで違う公演に出ていて、歌合も稽古の途中から合流しているのに出番が多くセンターポジション、全国ツアーで公演数も多く心身ともに疲労困憊は必至、ただそれ以上の達成感や充実感にも満ち溢れているはずだから、それを後押しするように皆で声をかけて美味しいお肉をご馳走してあげて欲しい…!(くるむくんはお肉が大好きです)

更には次の公演の稽古もすぐに始まるし、これまで後輩ポジションだったのが突然先輩ポジションになる訳だからそれに弾みをつけるように胴上げをお願いします!(実際にして欲しいという訳ではなく概念として言っています)(伝わりにくい)

あとはできれば少しでも休む時間、ほっとする時間、癒される時間、なんでもいいから「また頑張ろう」って思えるような出来事がくるむくんの身に起こって欲しい。とにかく全てが上手くいって欲しいです!(大声)

 

 

いや、賢くて運も持ち合わせてる子だからそんなこと思わなくても全然大丈夫だし心配してる訳じゃないんだけど、私が勝手にそう思い祈っていたいのだ!
あまりに思いすぎると「心配している自分」に焦点が向かいそうで怖いんだけど、推しと認識してしまった以上距離感を保ちながら自分の感情が自分の望まない方向にいかないように気を付けないといけないよな…。
(このへんの説明はちょっと難しいからまた改めて書く)

 

そんなこんなで、私は10年ぶりに新しい推しに出逢い、応援していくことを決めました!
くるむくんは大きくなる、絶対遠くない将来帝劇に立つような素晴らしい俳優になる、と根拠はないけど確信している。

才能も申し分なく、何より本人の素直さが成長速度を爆発的に加速させているのがよく分かる。

 

今でも少々遠い存在だと思うし、遠いまま遥か彼方へ行ってしまうような気さえする。
でも彼の姿に圧倒されている間は、心のままに彼を応援していたいなと思う。
応援って言っても具体的に自分にできることは何もないからそれがまた難しいところなんだけどね…。
「推すこと」の概念を掘り下げるのはもう少し時間がかかりそうだ。

 

今はただひたすらに、彼のキラキラした姿の「目撃者」でありたい。

 

*1:他の2.5次元作品も含めて、カーテンコールでは「○○役の△△です」と挨拶するのが一般的

理解と共感と尊重

久しぶりに胃のあたりがもやもやする感覚に陥った。

 

とあることが発端で友人にタンカきりました。

まぁ言い方はあれだけど、あなたのその行動はちょっと違うんじゃない?ということを伝えました。

確実に私が正論を言っている自信はあったし(正論の認識が人類共通とは思ってないけど自分にとっての自信という意味で)、大したことなかったら言わなかったけど、自分にとってはだいぶ大したことだったから言った。

 

そしたら友人から返って来たのが全く予想だにしていなかった返事で。

気持ちが乗っていないというか、ただの公の謝罪文というか。こちらの気持ちが一方通行な気がした。

「ヘイ!ユーちょいと腹割って話そうぜ!」に対して「ノーセンキュー」って言われた、みたいな(例えない方が分かりやすいってどういうこと?)

 

まさか10年来の関係でそんなこと言われるなんて思ってもみなくてびっくりしたけど、すごくデジャビュでもあって。

なんかやたら気にかかるし食欲出んしこれなんだっけなーと考えたら、若かりしきころ元彼に話し合いふっかけた時に同じようなことされたことを思い出した。

その時もめちゃくちゃキョトンで、でもキョトンの理由が自分で分からなくて、結局最後までちゃんと話し合わずに別れたんだった。で、自分で消化不良を起こしてずっともやもやしてた。

 

だから今回はせめて聞いてみようと思ってね、その気持ちのこもっていない謝罪文の理由を。

本音を晒すのは怖いけど、それが仲を深める近道になるってことをこの10年で私は学んだのだ(めちゃくちゃ当たり前のことなんだけど自分にとっては難題だった)

 

私が欲しいのは謝罪文でなく、貴女の本当の気持ちが知りたいんだよってことを、できるだけ丁寧に伝えたつもり。

あともし怒っているならそれすらも出して欲しくて、若干煽ったとこはあったかも。

 

でもだめでしたね。だめというか伝わらなかった。

相方のお姉さんの言葉を借りると「コミュニケーション能力が著しく低い」というんでしょうか。

言い方悪いけど、思考停止しているようにも思える定型文みたいのが返ってきたよ。

 

私の気持ちが全く伝わっていない、あるいは理解する気がない程シャットアウトしている、あるいは伝わっていることを言葉にする術を知らないような。

 

意見交換もまともにできない人(できないのか、私とはする気がないのかは分からないけれど)と関係性をこれ以上深められるとは到底思えないので、来たる日が過ぎたらそこでお別れしようと結論を出しました。

 

まぁそれは良いのよ。

先日会って本当に嫌になったから距離を置くことは決めていたし。ちょっと予想と違う形ではあるけど。

 

 

私が今回思ったのは、「近しい人とのコミュニケーションの取り方」 を学んでいかなくちゃいけないということ。

 

この友人の特徴を並べてみた。

・30代半ば

・交遊関係が狭い

・趣味は自分と合う人だけで内輪で楽しむ

・承認欲求がやたらと強い

 

これさ、明日は我が身じゃない?って思ったの。

全て当てはまる訳じゃないけど、ちょっと転がったら同じになりかねないなと。

 

特に私ひとりでいるのが好きでほっとくと殻に閉じ籠りがちだし、特定の人としか仲良くしないし根本はそれで良いと思ってるけど、時々「自分は一人で生きている」みたいな感覚に陥るくらい孤独を感じることもあって。

 

知らないうちにコミュニケーションが取れない人になっていたくない。

そのせいで分かり合えたかもしれない人と交わらない人生なんて嫌だ。

 

ちょっと苦手だけど、できるだけ他者とのコミュニケーションを大事にしていこう。

そしてだいぶ避けて通ってきた、恋人とかそれに近しい人とのコミュニケーションもいい加減学んでいかなくちゃいけないね。

 

幸い転勤先では新しい出逢いばかりだし、ストレスになるほど負荷をかける必要はないけど、無理のない範囲でやっていこう。

うつけ者

過去最強に言いたいことがまとまらないけど、なんかものすごい解釈違いを起こしていたみたいなので、将来の自分のために書き記しておく。

私は昔好きだった人を思い出してはうふふふってしたり偶然再会しないかしら?と妄想したりすることがたまにある(妄想の自由)
今回タイミングが良くその再会が現実になったんだけど、思った以上にときめかないしさほど楽しくないし想像よりもイケメンじゃなくてびっくりした。「思い出は美化される」とはよく言ったものだ。

今回の件が決まってから、当時ものすごく楽しかったんだから今回も勿論楽しいに決まってる!と思ってた(ただのあほなんだけど真っ直ぐにそう思ってた)。できることならあの時のあれは何だったの?と聞いてみようと思ってたけど、聞かなかった。聞く必要のないくらい、ただの勘違いだったことがよく分かった。

私は慎重深いし人を疑う。それこそ石橋は渡る前に叩きまくって割る。めちゃくちゃ叩いても割れなくても、それが「信じて良し」と同義ではないのね。
信じると決めた時には、同時にいつ裏切られても後悔しない決意をしているつもり。この10年新たに知り合った人間で、信じてみようと思えたのはこの人だけだった。でも今全然悲観的な気持ちはないから、その決意は上手くできていたんだと思う。この2年疑問が解消されないままだったから随分すっきりした。

最近別件で、先方との認識の相違を大きく感じる出来事があった。自覚がなくても案外そこらで起きていることなのかもしれない。先方が今その違和感を感じていないように、自分でも気付かないうちに誰かにそう思わせてる可能性はある。

一瞬「あれ?じゃあ周囲の人とどう接していくのが正しいの?」って思ったけど、その点はどう考えても分からない。相手の気持ちなんて相手にしか分かりっこない。私だって楽しくないのに楽しいふりをすることがあるし、相手が望んでそうな言葉を言うことがある。
相手が自分にくれた言葉をどこまで受け止められるか、受け止めようと思えるかが、相手を信じているかを測る基準にはなるから「私の言葉、この人に届いてないな」って思ったら独りよがりにならないよう気を付けた方が良いね。

これ以上人への警戒心高める必要はないと思うから、スタンスは変えずに教訓だけ覚えとく。

初めてフィギュアスケートを生で観た

Fantasy on Iceに行って来ました!
開催自体は冬?あたりに発表になって、その時点で出演スケーターの中にゆづるくんはなくて(毎年出演者小出しするスタイル)
でも地元開催だしこれは多分きっと恐らく出演するだろう!と根拠のない確証を理由にチケットを取っておいたのです。運良くアリーナ席当選(本当に運良すぎた絶対当たらないと思ってた)。足の具合もあるけどコメント動画出演とか肉体だけでも良いから来てくれないかなーと思ってたら、5月上旬にゆづるくんの出演が発表!しかも演技するって!我歓喜!の華!(刀ミュ好きにしか分からないネタはやめようか

オープニングで全選手登場→各選手の演技→トリでゆづるくん→フィナーレの流れでした。ゆづるくんを生で観るの物凄く楽しみにしてたのは前述の通りなんですけど、シーズンオフに入って若干忘れてた私スケヲタだった。氷上の名だたるメンツ(世界選手権とか五輪のメダリストばっか)に目が眩んでオペラグラスを使うことはオープニングの時点で早々に諦めたよとにかく凄かった!ゆづるくんがちょっと遠くても、通ったとこの観客がひたすら沸くから見失わなくて済んだ。さすがすぎる。なんかスケーターというよりパフォーマーだったよ。煽り上手いし自分の魅力と観客の要望を全て把握してる感じ。でも自分の近くには紀平とか知子とかいるしあぁもう皆1人ずつ立って動かないでおくれ!(無茶言うな

ラルクの時も痛感したんだけど、推しが複数名そこにいると目ん玉足りなくてアワアワしちゃうんだよね…視線固定できる贅沢さと目が追い付かない贅沢さは別物だけどいずれにしても眼福すぎて結果目が眩んでしまう…


生で観て初めて分かったのが、氷上を滑るのって随分えぐい音するのね!ゴリゴリゴリみたいな音鳴ってんのに身体も表情も優雅で?!ってなった。テレビでもカメラ近ければ音聞こえることあるけど、生だと余計にゴリゴリいってた。あとの感想はまともな文章にできないから箇条書き。

・氷と変わらない高さだとエッジの動きが見やすい
・だがジャンプのエッジは映像の方が圧倒的に見やすい(自分の視野を固定するのが結構難しい
・ジャンプあてっこゲームは解説がないと正解が分からないためゲームにならない
・ゆづるくんって存在するのかな?って思ってたけど存在してた
・驚くほどにテレビで見たまんまだった。私がテレビで見てきたゆづるくんそのまんまで、不思議なことに会うのが初めてな気がしなかった(いや普通に初めてだよ
・マスカレイドオペラ座のあの有名なメロディ(通じろ)で高まりMAX
・仮面を外したり着けたりする仕草を見れただけで2014年のオペラ座大好きマンは天にも昇る気持ち
・試合の時みたいな阿修羅顔。ショーでも真剣全力な彼に脱帽
・目の前で3A決まったけど高さすごすぎ人間技じゃない
・観るとこいっぱいすぎるのにスケートってかなりのスピードで、当然ながら中継じゃないから自分で自分の視線を動かすしかなくて大変。観戦慣れてないマン
・他の出演者にも敬意を払う姿が素晴らしい
・少し右足気にしてた。


元々エキシビションよりアイスショーより試合が好きだから、次こそ絶対試合を生で観たい…去年はチケット全滅だったけと、今年は予定が合えばいっそ海外まで飛ぼうかと思っている(予定には仕事ライブ舞台が含まれています。合うことあるのか?

あと自分の中で結論が出たことが!世紀の大発見!
ずっとフィギュアスケートにおける「表現力」とは何かって考えてきたんだけど(フィギュア知らない人に説明する時、指先まで意識が届いてるとか緩急があるとか肘が柔らかく使えてるとか当たり前のことしか言えなくて歯痒かった)
自分の中で言葉にするとしたら「遠くて見えなくても、どんな表情をしているか目に浮かぶように想像できる滑りであること」かなって今回思ったよ。ゆづるくんは自分と反対端で滑ってる時も「見えている」気持ちになるんだよな。すごいよな。

数年怪我に苦しんでるけど、どうか少しでも良くなって、今年も彼が納得いく滑りができますように!

自分は舞台観劇に向いていないのではないか②

刀剣乱舞用語には注釈を付けていますが、意味が分からなくても差し支えなく読めるのでスルーしても大丈夫です>


ミュージカル刀剣乱舞(以下刀ミュ)で出逢った、佐藤流司(以下流司くん)という俳優さんがとても好きだ。

まずは簡単に解説。刀ミュの「本公演」は毎回6振りのキャラクター(※1)がメインキャストとして出陣(※2)します。2015年からこれまでに7回の演目が上演された。1回の公演は1部と2部に別れており、1部はお芝居、2部はライブという構成。
刀ミュにおいてのライブは、私が今までラルク等で経験したライブとは概念が異なる。ラルクhydehydeとしてステージに立つが、刀ミュのライブは流司くんが加州清光としてステージに立つ。ライブ中「佐藤流司」の一面が見えることは一切なく、加州清光を演じながら歌い踊り続ける。すなわち刀ミュのライブは「舞台そのもの」と言える。ちなみに、本公演以外に幕張メッセさいたまスーパーアリーナで行われるライブだけ(お芝居なし)のイベントもある。

話を戻します。流司くんは刀ミュ本公演に4回出演済のため、今後出演するとしたらライブしかないと思っている。これは予想だけど、過去の例から見てもほぼ確信に近い。もっと言うならライブにも今後出演はないかもしれない。

5/7に行われた刀ミュのライブ(流司くん1人で幕張メッセを埋め尽くした)が私にとって初めての現場となった訳だが、ライブ中それはそれは大変だった。幸せ(楽しい最高!)と絶望(でも流司くんが演じる加州清光にはもう二度と会えないかもしれないこれが最初で最後かもしれない…)が一気にやってくる、あんな気持ちは久しぶりに味わった(言うまでもないが、勿論行って良かったと心の底から思っている。流司くんは最強にかっこ良くて最強に可愛かったまた会いたい)。


本記事のタイトルはここに繋がる。舞台という、もう二度とないかもしれない刹那的なものを好きになってしまったが、自分はこの道に向いていないのではないか?と早速思い始めてしまった。一筋どころかリピート体質だし。舞台なんてリピートするには回数がかなり限られる。しかしながら今私の手元には5枚のチケット(全部東京)がある。更に言うと2枚追加(こっちは大阪)しようとさえしている。たまに自分の行動力が恐ろしくなるが、今のところ後悔はしていない。

「舞台」というコンテンツ自体は半永久的に存在すると思うが、「演目」はある一定期間(作品によるが、今年の刀ミュ秋公演だと3ヶ月弱で全74回)上演されるだけの刹那的なもの。人気公演は数年後に再演されることもあるが、多少なりともキャストや脚本は変わり、全く同じものを観ることはほぼ叶わない(劇団四季で常時上演しているキャッツなどもあるが、だいぶ特殊なことので一旦例外としている)。幸い刀ミュは過去公演の大千秋楽は全て映像化されているが、世の中には映像化されない舞台の方が多いだろう。本当に一期一会みたいなものだ。

私がこれから舞台観劇をするにあたって、その点を不安に感じる。その場でしか体験できない楽しさや感情は様々あるが、またリピート体質部分が満たされず欠乏状態になるのでは?と。

人前に立つ仕事を続けてくれる限り、舞台でも映像でもむた流司くんにお目にかかれる機会はあるだろう。問題は流司くんが演じる役の方だ。あんまり役に入れ込み過ぎると後々自分の首を締めることになる(加州清光はだいぶ入れ込んでしまったので時既に遅しだが)。

ただ、私は加州清光ではなく佐藤流司に落ちたタイプのファンだから、どうしても彼が演じる他の役柄を見てみたいと思ってしまうんだよな。俳優を推す以上この気持ちはあって当然のことだと思う。次に観に行く舞台はロックオペラのロミジュリ。流司くん演じるロミオにどれ程入れ込むかは分からないけど、それこそ後悔することになるかもしれないけど、とりあえず己の本能に従って3公演行ってきます(これ以上増えないことを切に願っている)。

舞台観劇に向いてないかもしれないけど、もしかしたら環境に適応して自分の体質が変わるかもしれないし、気持ちの区切りをつける練習になるかもしれないし、初めての舞台リピートで何かしら見えてくるかもしれない。好きになるのはいつでも怖いけど、向いてない辞めよう!と決断するには少し早い気もする。

今自分が楽しいと思うものに全力を注ぐ生き方はもう今更変えられないから、後悔したとしてもそれもまた人生ってことですな。




【注釈】
※1…刀剣乱舞に出てくるイケメン達は、「刀」を顕現化した付喪神である「刀剣男士」というキャラクターです。例えば私が好きな流司くんは、新撰組沖田総司が所持していた「加州清光」という刀(キャラクター)を演じています。
※2…原作である「刀剣乱舞」の中で、刀剣男士達が戦に行くことを「出陣」と呼びます。刀ミュの中でも、公演に出演することを「出陣する」と表現します。

自分は舞台観劇に向いていないのではないか①

既にチケット5枚入手しておいて今更何を言うって感じだけど笑

私は、好きなものは何でもリピートしたいタイプです。ジャンル問わずそう。例えば好きな映画がテレビで放映されるとディスクに焼いて何回も見るし、同じライブに何回でも行くし、夢の国では好きな乗り物に何回でも並ぶし。最近気付いたけどこういうタイプってもしかして世間にはあまりいないのかな?USJのハリポタに2時間で5回乗ったとか話すと結構びっくりされる(乗り物酔いがなければ10回は乗る気だった)。

そして一度好きになると飽きることはほぼない。幼少期に好きだったセーラームーンは未だに好きだし、小学生の時に読んだ犬夜叉もそう。幼い頃好きになったものだから刷り込みされているだけでは?とも思ったけど、高校生の時に出会った鋼錬もラルクも未だに好きだから多分刷り込み以前の問題だと思う。

よって歳を重ねるごとに「好き」が増えていく。それは嬉しいことだけど、リピート体質ゆえに必要なお金、時間も増えていく。現実的に考えて無理なとこもあるから、好きになる前に自衛するを覚えてもう何年か経った。

そんな中ハマった「ミュージカル刀剣乱舞」。こんなに急速に沼に落ちる感覚を味わうのは多分初めてで、正月に出会ってから配信されている過去作品は全部見たし、BDも2枚購入。ライビュ1回、現場1回経験済というなかなかのジェットコースターロマンスっぷりである。

自分でも不思議な感覚だったから要因分析してたんだけど、一部結論が出たのでその話から。多分私、新しい好きが欲しかったんだと思う。

この10年「ライブ参戦」の趣味を生活の中心に置いて生きてきた。多い時は年間20本のライブに参戦したこともある。その間好きなアーティストが増えた訳ではないから、これもリピート体質ゆえの本数。
ところが2018年に参戦したライブは11本で、年々減ってきていた。好きなアーティストは減った訳ではないから、そのアーティストがライブをする本数が減ったということ。思えば毎年年末に「今年参戦したライブの本数」を数えては、その少なさに驚き愕然としてた。「来年はもっと行けるといいな」と毎年思い、それはずっと達成されて来なかった。

自覚はなかったけど、恐らく何年も「リピート体質の部分」が満たされていない状態だったんだと思う。勿論参戦したライブは全て楽しく、幸せを感じた。けどそこに必ず同居する「この幸せをもっと、もう一度体感したい」の気持ちが長年満たされていなかった。特に1番好きなラルクは2011年以降ツアーをしていない。単発ライブにはリピート体質部分の気持ちを満たすには力はない(勿論それ以外の気持ちは満たされている、ラルクのライブは最高だ)。

それに加えて、社会人として経済力がつきワークライフバランスを保てている最高の環境だったにも関わらず、お金も時間もこれ以上使うものがなかった。決してお金が余っているということではなく、自分にとって「お金を使う価値がある」とみなしているものは非常に限られているため、その限られているもの(ライブの本数)が減った以上他に使い道がなかったという意味だ。

そんな私が新たなコンテンツに出会い、そこにお金と時間を使えることに今は非常に満足している。

ここまでが前置きでした()
まさかタイトルに一切繋げられないとは……続きます。